宮田達夫の「宝塚歌劇取材回想記」5

 出会いというものは不思議なもので、縁がある人とは必ず何回も出会うものだ。
 今年8月、宝塚歌劇百周年にちなんで、私の作・構成・演出の朗読劇「私は芝居がしたいの!―原爆に散った元タカラジェンヌ園井恵子―」を、宝塚文化創造館で公演することになった。
 演じてくれた草笛雅子さんは、昭和51年に宝塚音楽学校に合格した。この年にはMBSナウの放送がスタートし、草笛さんたちの合格発表風景を取材に行ったのが縁の始まりだった。
 その後、草笛雅子さんは雪組の組子となった。この雪組には、麻実れいさん、遙くららさんがいて、よく取材に稽古場へ行ったものだ。そこでは、なんとなく草笛雅子さんの存在を意識するようになった。一番は「ジャワの踊り子」の寿ひずるさんの相手役のアミナ役だった。昭和57年5月の公演でのことだ。
 稽古場風景と舞台を織り交ぜて、MBSナウで放送したが、今あらためて当時の映像を見ると、若い草笛雅子さんが寿ひずるさんの恋人役を演じているのに出会う。稽古場も昔の一番教室である。

 その後、何十年もたって、旧毎日ホールを改装して劇団四季の「美女と野獣」の公演を決め、劇場の名前もMBS劇場とした。ある日、劇場に行くと、なんとオーデイションに来ていた草笛雅子さんと舞台下で偶然再会した。私が劇団四季の公演をプロデユースしていたからだ。そして彼女は劇団四季の舞台で演じることになる。
 出会いは不思議で、もしこの時再会していなかったら、次の出会いは無かっただろう。

 そして、また時が過ぎて、数年前に知人のデイナーショーで、偶然、隣りの席に草笛さんがいて再会した。この時の出会いが無ければ、今回の朗読劇に彼女に出てもらうことは出来なかっただろう。
 私の作の朗読劇に主演してほしいというと、何のためらいもなく、ハイという返事。
 宝塚歌劇入団の時から歌声は聞いている、稽古場での姿もたくさん見ている。そして彼女の歌声を再び聞いたとき、アカペラで歌える彼女こそ、朗読劇にぴったりだと勘がひらめいた。そして稽古場は、なんと彼女が音楽学校の生徒時代に学んだ日舞教室だったのも、めぐりあわせかなと思った。

 そして本番の公演、ひらめいた勘は図星だった。
 観客の中に宝塚の演出家の植田紳爾さん、柴田侑宏さんらの姿があった。皆、草笛さんの恩師ばかりだ。出会いというものは互いの持つ縁なのだろう。

宮田達夫の「宝塚歌劇取材回想記」4

「こんなことが出来るのは貴方だけですよ」
 と、古い阪急関係者に言われたのは、星組トップスターになった麻路さき写真展を開催した時だった。
 麻路さきは、入団したてのころ、宝塚大橋の上で時々出会い、いつも私に挨拶してくれる生徒だった。後の話だが、彼女は私を劇団事務所の人間だと思っていたそうだ。当時は、まだ月組の組子時代で、初舞台の喜多弘さん振付のロケットの稽古場での取材でも、何となく目につく生徒で、何人かにインタビューしたとき、彼女にも「同期とは」と聞くと、「親よりも大切なのが同期」という返事だった。その後、劇団関係者が、お辞儀する生徒は麻路さきだと教えてくれた。
 月組の舞台で、フィナーレでは下手の一番端だった。研3の時に星組へ組替えになり、そのころから目につく生徒だと感じていたので、MBSナウで彼女に焦点を合わせて取材をすることにした。やがて、バウホールでの新人公演で主役に選ばれ、その後の新人公演では7回も主役を演じた。ディガ・ディガ・ドゥの公演では、トップと2番手の役も演じ、自分の3番手も併せると、一人で3人の役をこなすという珍しい舞台もあった。

 今とは違って、稽古場での取材が許されていたので、取材のかたわら彼女を中心に写真を撮り続けていたら、もの凄い枚数になった。そのころは演出家の植田紳爾さんが宝塚歌劇団理事長で、ある日「麻路の写真展したら」と一言。ちょうど宝塚南口の駅近くに、トヨタの営業所がフリースペースを持っていたので、そこで18歳の入団の時から、舞台での位置が一番端だった月組組子から星組に組替えになり、やがて徐々に舞台中央の位置へという、写真で見る彼女だけの歴史を展示した。枚数は400枚近くあった。
 宝塚での写真展が終わったら、植田さんが「東京でもしたら」と一言。ふたたび有楽町の阪急デパートで、麻路さき東京公演「ダルレークの恋」に合わせて開催すると、ファンが9000人ぐらいつめかけた。むろん入場料が取れるわけでもないので、ボランティアでの開催だった。
 神戸東灘の知人のレストランが、「店内に写真が飾れるから写真展をしてほしい」と言うので、クローズだからいいかと、ここでも開催した。
 稽古場で彼女を見つめ始めたのが1983年、サヨナラ公演が1998年の「皇帝」で、入団した初舞台からトップスターになってのサヨナラ公演まで、すべて取材の合間に写真に収めての麻路さき写真展だった。こんなことをされた宝塚の生徒は一人もいない。

 彼女にはもう一つ付録がある。当時フィガロジャポンというファツション誌があり、その雑誌にエッセイを書いてもらった。その後、出版社がエッセイと私の写真を合わせて本にしたいと言いだして、出来たのが「デジャヴ・マリコのフリートーク」だ。
 この本が出来た時は、星組がちょうど東京公演中で、出版社が「外国人記者クラブ」で出版記念会を開いてくれた。著者はじめ、作家の陳舜臣さん夫妻、植田紳爾さん、ミュージカル作家の山崎陽子さんらが出席し、星組の組子もお祝いに会場を賑やかした。
 陳舜臣さんからは、
「花つぼみがたのしい。ひらいた花がどんな色と姿をもつか、期待に心ときめくことだ。宮田さんが、縁あって麻路さんのつぼみの時代から、咲きこぼれる現在までをカメラにおさめて、私たちに披露してくださった。私たちは、未来にはばたこうとする一人の女性の成長の記録と、宝塚が旧から新に生まれ変わった歴史を重ね合わせて“われらの時代”をそこに見る」
というお言葉をいただいた。

宮田達夫の「宝塚歌劇取材回想記」3

天津乙女さんにインタビューしたのは、宝塚歌劇団の旧建物にあった稽古場だった。
 昭和51年2月13日、天津乙女さんが70歳の舞台。当時は宝塚大劇場だけという友の会公演というのがあり、その公演での演目は「くるるんるん」だった。
 天津乙女さんの本名は鳥居栄子さん、それゆえ愛称はエイコさん。後年、生徒も劇団の人もエイコ先生と呼ぶことが多かった。

 毎日放送の夕方のワイドニュース「MBSナウ」の放送のため、稽古場に取材に行き、取材をしていると、当時はまだ同録カメラが複雑でフィルムの時代、途中フィルム切れで入れ替えをしているカメラマンが、宝塚の女性ばかりの稽古場なんて初めてゆえ、入れ変えに手間取っているので、エイコさんが、
 「ねえ、あなた本当のカメラマンなの……」
と聞くので、カメラマンは思わず、
 「ハイ、そうです」
 インタビューしていると天津乙女さんが、
 「昔はねえ、事務所の人が質問を紙に書いて持ってきたものよ。それを見て、答えを書いて渡したの。こんな直接なんてなかったの」
という。エイコさんが宝塚歌劇に入団したのは12歳の時だから、時代も時代だ。

 不思議なことに生年月日が私と同じだったせいか、なんとなく親しくなり、芸歴60周年記念の宝塚ホテルでのお祝いの会で、エイコさんが踊ったのをテレビニュースで生中継。会場で私がインタビューした。
 「もう胸がいっぱいなの。劇団が使ってくれるから、ここにいることが出来るのよ」
 という一言が印象的だった。よもぎ色の着物が、よく似合っていた。

 エイコさんが入団したのは、1905年生まれの12歳。このころ、ダンスをするときに「わきの下あて」というものを付けたそうだ。つまり当時は、わきの下の毛を剃る習慣も無く、そのため、わき毛をかくすためのものが「わきの下あて」という白い布地で作ったもの。エイコさんは12歳で、まだ生えていないのに、わざわざわきの下に、それを付けていたという話を聞いたときは大笑いした。

 亡くなる日までお付き合いしていたが、その昔の12歳の面影は、70歳を過ぎた天津乙女さんからは、残念ながら見い出すことは出来なかった。
 タバコが好きで、楽屋でも大鏡の前で衣装を着けて煙草を美味しそうにくゆらせ、
 「こんな所、写真撮っちゃだめよ」
と一言。38年前の話だ。
 亡くなった時は、いの一番に武庫山のご自宅に駆け付けた。神式だったので、暗い部屋の布団の中にエイコさんの小さな体が横たわり、枕元に立てられた1本のローソクの火が妙に印象に残った。

宮田達夫の「宝塚歌劇取材回想記」2

 今のメディアの人たちは、「そんなことが出来るのか」と言うだろうが、当時はそれが出来たのだ。 それは、演出家の柴田さんの稽古場の時だった。記憶では、「うたかたの恋」の稽古場だった。当時、MBSが夕方に放送していた「MBSナウ」で、サントリーのコマーシャルのカットの通りに、遙くららさんを撮影したら、面白い映像が出来るのではないかと考えていた。
 当時はまだ、フィルムに代えてビデオテープを使用するENGというカメラ機材をしっかり使いこなせるカメラマンが少ない時代だったが、時代の先端を行くカメラマンがいた。それが田中慶太郎氏だった。彼は、もちろんモック(遙くららさんの愛称)の大ファン。撮影は宝塚大橋の上での移動撮影である。

 まず、演出の許可がいるので、柴田さんに恐る恐る、実は、かくかくしかじかで遙さんを撮影したい、今は稽古中で時間が取れないが、稽古の合間に彼女をお貸し願えないだろうかと、お伺いを立てると、
 「しょうがないな、貴方の言うことなら」
ということで、出番のないころあいを見はからい、「遙さん、ではよろしく」と言って外に連れ出した。

 「すいませんね、稽古中に」
 「いいえ、嬉しいわ、外の空気が吸えて」
と、モックの嬉しそうな返事。
 早速、宝塚大橋の上で撮影開始。サントリーのコマーシャルを真似ての撮影だけに、撮影するカットのサイズも秒数も、まったく同じに撮影するのだから、かなり大変のはずなのに、カメラマンもモックも大変どころか、楽しそうに何度も撮り直し、嫌な顔一つせずに、かえってこの空間を楽しんでいるみたいだった。

 撮影が終わって稽古場に遙さんをお連れすると、稽古場の組子が、ただ不思議そうな顔をしていたのが無性に愉快だった記憶が今でもある。
 でも、それだけテレビの画面、特にニュースの画面に露出されるのだから、普段、宝塚歌劇を見ない御婦人たちも、一度見てみようという気になり、切符をたくさん頼まれたのだった。

 今は、メディアは稽古場に入れない。もちろん「稽古場の取材なんてとんでもない」という時代である。
 かつては生徒たちも、メディアから世間一般の常識や知識を得たりして、有意義な一時を過ごし、互いに良い作品を創ろうとしていたのだった。

宮田達夫の「宝塚歌劇取材回想記」1

宝塚歌劇を取材する今のメデイアの記者が聞いたら驚き桃の木山椒の木だが、その驚きの取材のお話をしよう。それはトップスターの鳳蘭さんがいつ退団するかというニュースがトップニュースになる時代だ。いくら彼女の家に電話をしても出ない、出るはずがない。出るのは忠臣蔵ではないが、山?川?ではなく、電話のコールがいくつの時は出るという約束を身内の間で決めていたそうだ。あとは電話の音に恐れおののいていたとか。

 さあ、いよいよ鳳蘭さんのサヨナラの公演最終日、今ではこんなことができるのかというほどだが、緞帳が降りたら舞台下手で彼女から最後の舞台の気持を聞くことにしていた。何回ものカーテンコールで、これで終わりと思い、マイク片手にカメラマンをしたがえて緞帳が降りた舞台に向かい、鳳さんに今の気持はとマイクを差し出すと、「緞帳が! 緞帳が!」という、あわてた鳳蘭さんの叫び!なにごとかと思いきや、なんとまた緞帳があがっていくではないか。私は舞台の上にいる。こちらからは客席の三階席まで見えるありさま、あわてて舞台裾へ退散。これを何と二度三度と繰り返して、お蔭で涙にくれる鳳蘭さんのサヨナラインタビューは笑いの泪の中で撮影。こんなことは今ではとても考えられないテレビ取材でした。

 鳳蘭さんにまつわる話では、彼女が結婚ということになり、神戸の生田神社で結婚式ということになった。神式の式場には入れない。そこで当時の権宮司に無理やりお願いして、ワイヤレスマイクを権宮司の衿に仕込んだのだ。当時は、まだENGカメラという新式のカメラが出たばかりで、これだと映像はないが音声だけをビデオテープに収録可能なのだ。地面に置いてあるカメラはテープスタートしているから見事新郎新婦の誓いの言葉はばっちりオンエアーされた。その後、どうして誓いの言葉が放送されたかは謎のままだった。

 トップスターの安奈淳さんの時も、はかま姿の彼女をサヨナラの挨拶を終えた直後に舞台下手裾でインタビューした。「さよならでは泣きません」と言った安奈さんは、本当に涙一つ流さないでインタビューに答えてくれた。報道という立場から言うと、テレビという映像で伝えるものには、こうした臨場感あふれる場所で取材することが大切なことと言えるでしょう。

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